ワラキア公国の誕生
ヴォイヴォドについて初めて記述がなされた断片には、カルパチア山脈の両側の土地を支配していた(ファガラシュを含む)ワラキア公リトヴォイとのつながりが登場する(1271年)。彼はハンガリー王ラースロー4世へ朝貢することを拒んだという。リトヴォイの後を継いだのは弟のバルバト(en:Bărbat、在位1285年-1288年)であった。さらなるモンゴル侵攻(1285年-1319年)でハンガリー国家の弱体化は続き、アールパード王家が衰退したことでワラキア政治形態の統合、そしてハンガリー支配からの脱却の道が開けた。
ワラキアの建国は、言い伝えによれば伝説のワラキア公ラドゥ・ネグル(en:Radu Negru)の業績とされてきた。ラドゥ・ネグルは、オルト川の両岸に支配を確立しハンガリー王カーロイ1世に対し反乱を起こしたバサラブ1世(en:Basarab I)と歴史的につながる。バサラブ公はバサラブ家初代の公として、クンプルングに宮廷をかまえた。彼はファガラシュ、アムラシュ(en:Amlaş)、セヴェリンの領土をハンガリーへ渡すことを拒み、1330年のポサダの戦いでカーロイ1世軍を打ち負かした。バサラブは東へ領土を拡張し、ブジャクのキリアにまで至る領土を支配した。彼の後継者らはこの遙か東方の領土を維持することができず、キリアは1334年頃ノガイ人(en:Nogais)によって奪われた。
バサラブ1世の次にワラキア公となったのはニコラエ・アレクサンドル(en:Nicolae Alexandru)で、ニコラエの次はヴラディスラヴ1世(Vladislav I)が継いだ。ヴラディスラヴは、ラヨシュ1世がドナウ川南部を占領したあとにトランシルヴァニアを攻撃した。1368年にヴラディスラヴは自身を大王として認めさせようとしたが、同じ年に再び反乱に遭った。彼の統治時代は、最初のワラキア=オスマン帝国間の対決を目の当たりにした。対トルコ戦でヴラディスラヴはブルガリア皇帝イヴァン・シシュマン(en:Ivan Shishman of Bulgaria)と同盟した。 ワラキア公ラドゥ1世と彼の後継であるダン1世のもとでは、トランシルヴァニアとセヴェリンの領域がハンガリー王国との間で争われ続けていた。
バサラブ1世以降、統一されたワラキアの統治者は『公』(ルーマニア語:DomnまたはDomnitor、英語:Prince)と呼ばれるが、一つの家系が世襲する国家ではなかったことが特色である。それぞれが大土地所有者であるボイェリ(en:Boyar、ボヤールとも。封建貴族階級)は、自身の領土から賦役と十分の一税を取り立てる封建領主であった。彼らは同じボイェリの中から、自分たちを代表する人物を公に選ぶ選挙制をとっていた。そのため、公は終身制と決まっているわけではなく、2、3年で交替したり、同じ人物が2度・3度公位につくことがあった。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
ワラキアはルーマニアの首都ブカレストがある地域でした。
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